持統天皇といえば、日本史における数少ない女性天皇の一人として知られていますが、彼女の名前は歴史だけでなく、古典文学の世界でも輝いています。
特に、小倉百人一首の2番に収められている「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」という和歌は、初夏の爽やかな情景を美しく表現した一首として有名です。
持統天皇はどんな人?

持統天皇(じとうてんのう)は、日本の歴史の中でも特に重要な女性天皇の一人です。
彼女は第41代天皇として即位し、日本の政治制度や文化に大きな影響を与えました。
父は天智天皇(てんじてんのう)、夫は天武天皇(てんむてんのう)であり、まさに飛鳥時代の中心にいた人物といえます。
持統天皇の生い立ちと背景
持統天皇は、西暦645年に生まれました。
本名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といい、皇族の中でも特に高貴な血筋の女性でした。
彼女の父である天智天皇は、大化の改新を行い、中央集権的な国家を築こうとした人物です。
一方、夫の天武天皇は、その天智天皇の弟にあたります。
彼女の人生の転機となったのは、672年に起こった「壬申の乱(じんしんのらん)」です。
この戦いは、天智天皇の死後、誰が次の天皇になるかを巡って起こりました。
天智天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)と、持統天皇の夫である大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)が対立し、結果として大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位しました。
この戦いで、持統天皇は夫を支え、重要な役割を果たしました。
持統天皇の即位と政治

天武天皇の治世の間、持統天皇は皇后として彼を支え、政治の中枢に関わりました。
しかし、天武天皇は686年に亡くなってしまいます。
本来であれば、持統天皇と天武天皇の間に生まれた皇子・草壁皇子(くさかべのみこ)が即位するはずでした。
しかし、草壁皇子は28歳の若さで亡くなってしまいます。
そこで、持統天皇は自ら天皇となる決断をしました。
690年、持統天皇は第41代天皇として即位し、日本の政治を担うことになります。
女性天皇は、推古天皇、皇極天皇(重祚して斉明天皇)に続き史上3人目でした。
持統天皇の在位中には、律令制度の確立に向けた取り組みが進められました。
特に、夫である天武天皇が進めていた「大宝律令(たいほうりつりょう)」の編纂を推し進め、日本の法制度の基礎を築くことに尽力しました。
また、国家の戸籍制度を整備し、人民を管理する仕組みを確立しました。
これにより、後の奈良時代の律令国家の基盤が固まったのです。
日本初の本格的な都「藤原京」の造営
持統天皇の大きな功績の一つが、日本初の本格的な都「藤原京(ふじわらきょう)」を造営したことです。
それまでの日本の都は、天皇が変わるたびに遷都(せんと)が繰り返されていました。
しかし、持統天皇は、中国・唐の都・長安(現在の西安)をモデルにした大規模な都を造ることを決めました。
694年、藤原京が完成し、持統天皇は遷都を行いました。
この都は、碁盤の目のように整然と区画され、政治や行政が行いやすい構造になっていました。
これは、後の平城京(へいじょうきょう)や平安京(へいあんきょう)にも影響を与え、日本の都の基礎となりました。
和歌にも優れた才能を発揮
持統天皇は、政治だけでなく文化の面でも大きな影響を与えました。
特に和歌の才能に優れ、『万葉集』にも彼女の歌が収められています。
その中でも最も有名なのが、小倉百人一首にも選ばれている次の和歌です。
この歌は、春が終わり夏が来たことを、白い衣が干される天の香具山の風景とともに詠んだものです。
季節の移り変わりを情緒豊かに表現しており、現在でも多くの人に親しまれています。
晩年と持統天皇の影響
持統天皇は697年に孫の文武天皇(もんむてんのう)に譲位し、自らは上皇として引き続き政治の影響力を持ち続けました。
そして、702年に58歳で亡くなりました。
彼女の遺骨は、夫である天武天皇とともに奈良県の「天武・持統合葬陵(てんむ・じとうごうそうりょう)」に葬られています。
持統天皇の政治手腕や文化への貢献は、日本の歴史において非常に重要なものです。
彼女の統治によって、天皇中心の国家体制がより強固なものとなり、日本の政治や文化の基盤が築かれました。
また、彼女の和歌は今なお多くの人に親しまれ、日本の文学史に名を残しています。
このように、持統天皇は女性でありながらも、日本の政治や文化に多大な影響を与えた人物でした。
彼女の功績は、現代の私たちにも大きな影響を与えているのです。
持統天皇の百人一首の和歌はどんな歌?

持統天皇の和歌は、小倉百人一首の2番に収められており、日本の古典文学の中でも特に有名な一首です。
この和歌は、四季の移り変わりを美しく表現し、自然の風景と人々の暮らしを巧みに組み合わせたものとなっています。
持統天皇の百人一首の和歌
この歌は、平安時代に藤原定家(ふじわらのていか)が選んだ『小倉百人一首』に収録されており、さらに『新古今和歌集』の夏の部(175番)にも掲載されています。
また、『万葉集』にも同じ歌が収められていますが、少し異なる表現になっています。
現代語訳と意味
この和歌を現代の言葉に訳すと、以下のようになります。
「春が過ぎて、夏がやってきたようですね。夏になると真っ白な衣を干すといいますから、あの天の香具山には、きっと白い衣が翻っているのでしょう。」
この歌は、夏の訪れを感じる情景を詠んだものです。「白妙(しろたえ)」というのは、コウゾなどの木の皮から作られた白い布のことで、「衣(ころも)」にかかる枕詞(まくらことば)です。
昔の日本では、夏になると衣替えをして、冬の間に身につけていた衣を洗い、干す習慣がありました。
そのため、この和歌では、天の香具山に干された白い衣の光景が、夏の訪れを象徴するものとして詠まれています。
和歌に込められた情景と意味
この歌の美しさは、視覚的なイメージの鮮やかさにあります。
春が終わり、初夏の青々とした山の緑と、白く干された衣のコントラストが目に浮かびます。
また、「夏来にけらし」という表現は、確信を持ちながらも驚きを込めた言葉遣いです。
「けらし」は「けるらし」が縮まった形で、「~らしい」と推測を表します。
つまり、「もう夏が来たようだ」という気づきを表現しているのです。
天の香具山とは?

「天の香具山(あまのかぐやま)」は、現在の奈良県橿原市にある山で、大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)の一つです。
この山は、神話にも登場し、「天から降りてきた山」とされています。
そのため、「天の」という枕詞がつけられています。
持統天皇が政治を執り行っていた藤原京からも見ることができる山であり、彼女がこの歌を詠んだ背景には、自らの生活の中で見慣れた風景があったと考えられます。
『万葉集』との違い
実は、この和歌は『万葉集』にも収められています。
しかし、『万葉集』では次のように記されています。
春すぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山
この違いに注目すると、百人一首の歌では「衣ほすてふ(衣を干すという)」と伝聞の形になっているのに対し、『万葉集』では「衣ほしたり(衣を干している)」という確定的な表現が使われています。
これは、和歌が詠まれた時代の違いによるものと考えられます。
持統天皇の時代には実際に衣が干されていたかもしれませんが、藤原定家が『新古今和歌集』や『百人一首』を編纂した頃には、その風習が薄れていた可能性があります。
そのため、「そう伝え聞く」とやや距離を置いた表現になったのではないかと考えられます。
和歌が表す持統天皇の感性
持統天皇のこの和歌は、単に季節の移り変わりを詠んだだけでなく、彼女自身の心情が表れているとも考えられます。
持統天皇は、夫である天武天皇を失い、息子である草壁皇子も早世するという苦難を経験しました。
そのため、彼女の和歌には、物事の移り変わりに対する繊細な感受性が表れているのかもしれません。
春から夏へと移り変わる様子を見つめながら、自らの人生の移ろいを重ねていた可能性もあります。
まとめ|持統天皇と百人一首の世界観に関するポイント
- 持統天皇の百人一首に関するポイント(データAの順)
- 持統天皇は日本第41代の女性天皇である
- 父は天智天皇、夫は天武天皇である
- 本名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)である
- 645年に生まれ、飛鳥時代の中心人物であった
- 672年の「壬申の乱」で夫の天武天皇を支えた
- 壬申の乱は大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)の皇位争いであった
- 天武天皇の死後、草壁皇子が早世したため、持統天皇が即位した
- 690年に即位し、史上3人目の女性天皇となった
- 大宝律令の編纂を推進し、日本の法制度の基礎を築いた
- 戸籍制度を整備し、人民管理の仕組みを確立した
- 694年に日本初の本格的な都「藤原京」を完成させた
- 藤原京は碁盤の目のように整然とした都市であった
- 持統天皇は和歌の才能にも優れ、小倉百人一首に和歌が収録されている
- 彼女の和歌は「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」である
- 『新古今和歌集』の夏の部(175番)にも同じ和歌が掲載されている
- 和歌は夏の訪れを白い衣と香具山の風景で表現している
- 『万葉集』では「衣ほしたり」、百人一首では「衣ほすてふ」と表現が異なる
- 和歌は「天の香具山」の神聖さと季節の移り変わりを巧みに表現している
- 彼女の和歌は今なお多くの人に親しまれている
