百人一首の第11番は、平安時代の学者・官僚である小野篁(おののたかむら)が詠んだ、孤独と旅立ちの心情を描いた歌として有名です。
この記事では、百人一首『11番』の原文、読み方、決まり字、現代語訳と意味について説明します。
さらに、作者、出典や語呂合わせについても詳しく解説していきます。
百人一首『11番』の和歌とは
原文
わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟
読み方・決まり字
わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね
「わたのはら や」(六字決まり)
現代語訳・意味
広い海をたくさんの島々を目指して漕ぎ出した、と都の人々に伝えてくれ、漁師の釣り船よ
語句解説
わたの原(わたのはら) | 広々とした海を意味します。「わた」は古語で「海」のことを指し、広大な海原を表現しています。 |
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八十島(やそしま)かけて | 「八十島」は「たくさんの島々」という意味で、「八十」は数量が多いことを表します。「かけて」は「目指して」という意味で、多くの島々を目標に進むことを表現しています。 |
こぎいでぬと | 「こぎいでぬ」は「漕ぎ出す」という意味で、「ぬ」は完了を示す助動詞です。つまり「漕ぎ出した」ということを伝えています。「と」は引用を示す助詞で、次の言葉へつながります。 |
人には告げよ | 「人」は都にいる人々、つまり家族や友人を指しています。「告げよ」は「伝えてくれ」という意味で、漁師の釣り船に向けて呼びかけています。 |
あまの釣り舟(あまのつりぶね) | 「あま」は漁師、「釣り舟」はその漁師が使う船を指します。この場合、漁師の船を擬人化して、船に自分の想いを託すような形で伝えています。 |
作者|参議篁
作者名 | 参議篁(さんぎ たかむら) |
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本名 | 小野篁(おのの たかむら) |
生没年 | 802年(延暦21年)〜 853年(仁寿2年) |
家柄 | 小野氏は学問の家系で、父には有名な文人・小野岑守(おののみねもり)がおり、名門の家に生まれました。 |
役職 | 篁は朝廷に仕え、最終的には参議(さんぎ)という高位の官職に就きました。また、大内記(だいないき)、大宰少弐(だざいのしょうに)を歴任しました。 |
業績 | 漢詩に優れ、『令義解』(りょうのぎげ)の編纂に携わるなど、当時の文化的・法的貢献がありました。また、遣唐使の副使としても任命されましたが、嵯峨天皇との対立で隠岐に流罪となりました。 |
歌の特徴 | 流罪に象徴されるような孤独感や寂寥感が強く反映されています。彼の和歌には、強い反骨精神や深い知性、また厳しい環境での心情が表れています。 |
出典|古今和歌集
出典 | 古今和歌集(こきんわかしゅう) |
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成立時期 | 905年(延喜5年) |
編纂者 | 紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね) |
位置づけ | 八代集の最初の勅撰和歌集 |
収録歌数 | 1,111首 |
歌の特徴 | 四季、恋、哀傷など多様なテーマに基づいた和歌が収められています。四季の歌は日本の自然美を表現し、恋の歌は人間の感情を深く掘り下げています。 |
収録巻 | 「羇旅」(きりょ)407番 |
語呂合わせ
わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね
「わたのはらや ひげつ(ひけつ?わたのはらや!)」
百人一首『11番』の和歌の豆知識
小野篁は昼と夜で「二つの顔」を持っていた?
昼間は朝廷で役人として働きながら、夜になると地獄で閻魔大王の補佐をしていたと言われています。この話は、篁の聡明さと不屈の精神が伝説化されたものであり、彼の謎めいた人物像を強く印象づけます。こうした逸話からも、小野篁がただの学者や役人ではなく、民間伝承や物語の中でも魅力的な存在であったことがわかります。
小野小町と血縁があったかもしれない?
具体的には、小町の親もしくは祖父が篁ではないかとされています。小野家は文化的にも高い地位にあった一族であり、歌人としても名高い家系でした。こうした家族関係が事実であれば、篁の文学的才能も家系の影響によるものである可能性があります。このような歴史的推測が、篁の人物像にさらに深みを加えます。
流刑になった理由は「遣唐使」だった?
当時、篁は遣唐使の副使に選ばれましたが、船の故障や大使との対立が原因で出発に遅れました。3度目の渡航も拒否したため、これが嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐島へ流されることとなったのです。遣唐使は平安時代の重要な外交活動であり、篁もその一員として中国へ渡る予定でしたが、この出来事が彼の人生を大きく変えました。
隠岐島は歴史的な流刑地だった
特に権力者や重要な人物が流される場所として、隠岐島は遠く隔絶された厳しい環境であったため、島に流された人々は孤独と不安に苛まれることが多かったと言われます。現在でも隠岐島には篁や後鳥羽上皇に関わる歴史的な遺跡が多く残っており、歴史ファンには見どころの多い場所です。
まとめ|百人一首『11番』のポイント
- 百人一首『11番』の作者は小野篁(おののたかむら)である
- 歌の原文は「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」
- 決まり字は「わたのはら や」で六字決まりとなっている
- 歌の現代語訳は「広い海をたくさんの島々を目指して漕ぎ出した、と都の人々に伝えてくれ、漁師の釣り船よ」である
- 「わたの原」は広い海を指す古語である
- 「八十島かけて」は多くの島々を目指して進むことを意味する
- 「こぎいでぬ」は完了の助動詞を使い「漕ぎ出した」という意味を持つ
- 「人には告げよ」は都にいる家族や友人への伝言を託す意味がある
- 「あまの釣り舟」は漁師の船を擬人化している表現である
- 小野篁は平安時代の学者であり、最終的に参議に就任した
- 篁は遣唐使の副使に選ばれたが、嵯峨天皇との対立で流罪となった
- 篁の歌には流罪による孤独感や寂寥感が反映されている
- 出典は『古今和歌集』で、905年に編纂された
- 『古今和歌集』は日本初の勅撰和歌集である
- 百人一首『11番』の歌は『古今和歌集』の「羇旅」407番に収録されている
- 小野篁には昼間は官僚、夜は閻魔大王の補佐という伝説がある
- 小野篁は小野小町の親か祖父であった可能性がある
- 隠岐島は篁だけでなく後鳥羽上皇も流された歴史的な流刑地である