清原元輔と百人一首の世界観|和歌の魅力と人物をわかり易く解説!

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清原元輔(きよはらのもとすけ)は、平安時代中期の歌人で、「百人一首」の42番目にその名を残しています。

「清少納言の父」として知られる一方、「三十六歌仙」の一人としても高く評価されました。

彼の代表歌「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」は、永遠の愛を誓ったはずの約束が破られた切なさを詠んでいます。

本記事では、清原元輔の人物像や和歌の魅力、彼が果たした歴史的な役割まで詳しく解説します。

目次

清原元輔はどんな人?

清原元輔(きよはらのもとすけ、908年~990年)は、平安時代中期に活躍した歌人で、後に「三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)」の一人として名を残した人物です。

彼は「枕草子(まくらのそうし)」で有名な清少納言(せいしょうなごん)の父でもあります。

また、彼の祖父(もしくは父)にあたる清原深養父(きよはらのふかやぶ)も、百人一首に歌を残している歌人でした。

このように、清原家は代々和歌や学問に優れた家系として知られています。

万葉集を現代に伝えた才能者

清原元輔は、和歌の才能に恵まれ、特に「梨壺の五人(なしつぼのごにん)」の一人として大きな功績を残しました。

「梨壺の五人」とは、平安時代の村上天皇の命により、「万葉集(まんようしゅう)」に訓点(くんてん:漢文を日本語として読みやすくするための注釈)を施した5人の優れた歌人のことです。

この作業によって、万葉集は現代のように読みやすい形に整えられました。

国家的和歌プロジェクトに貢献

また、清原元輔は「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」の編纂にも参加しました。

「後撰和歌集」は、天皇の命によって選ばれた和歌を集めた「勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)」の一つです。

彼の才能と貢献が認められ、このような国家的なプロジェクトに携わったのです。

官位を超えた才能

彼は公務でも活躍し、官僚として河内権守(かわちのごんのかみ)や肥後守(ひごのかみ)などの職務を歴任しましたが、身分はあまり高くありませんでした。

しかし、和歌の世界ではその才能を高く評価されており、藤原公任(ふじわらのきんとう)によって三十六歌仙の一人に選ばれました。

三十六歌仙とは、和歌の名手として特に優れた36人の歌人のことを指します。

ユーモアと才能あふれる歌人

清原元輔は、和歌だけでなく、そのユーモラスで機転の利く性格でも知られていました。

「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」には、彼が賀茂祭(かものまつり)の帰りに落馬した際、冠が取れて禿げ頭を人々に見られたことを、自らジョークにして笑いに変えたというエピソードが残っています。

また、彼は即興で歌を詠む「速詠(そくえい)」の才能にも優れており、周囲を驚かせていたと言われています。

永遠の愛を詠む歌人

彼の代表作の一つである「百人一首」に収められた和歌では、「末の松山(すえのまつやま)」という場所を用いて、永遠の愛を誓う表現をしています。

「末の松山」は、どんな大波が来ても越えない山として知られており、それを「二人の愛も変わらない」という比喩に使ったのです。

しかし、この和歌は自分自身の経験ではなく、友人の代わりに詠んだものでした。このように、彼は自分の感情だけでなく、他人の心情も繊細に表現できる歌人だったのです。

清原元輔は、83歳という当時としては非常に長生きした人物でもあります。

彼の和歌やエピソードは、今でも多くの人々に親しまれており、彼が遺したユーモアや人間味あふれる逸話も、多くの人に笑顔をもたらしています。

清原元輔の百人一首の歌とは

清原元輔(きよはらのもとすけ)は、平安時代の歌人であり、彼の和歌は「小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)」の中にも収められています。

百人一首は、藤原定家(ふじわらのていか)が選んだ、古今の優れた歌人100人の和歌を集めた歌集です。

その中で、清原元輔の歌は42番目に収録されています。

彼の歌は次のような内容です。

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

読み方は、「ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すえのまつやま なみこさじとは」となります。

この和歌を現代語訳すると、「お互いに涙で濡れた袖を絞りながら、永遠に心変わりはしないと約束しましたよね。

末の松山を波が越えることがないように、私たちの愛も変わらないはずでしたのに」という意味です。

和歌の背景と意味

この和歌は、実際には清原元輔自身の失恋を詠んだものではなく、彼の友人が恋人に心変わりされた時の気持ちを代わりに詠んだものです。

「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」の詞書(ことばがき)には、「心変わりしてしまった女性に、友人に代わって詠んだ歌」と記されています。

歌の中に出てくる「末の松山(すえのまつやま)」は、現在の宮城県多賀城市に実在する場所です。

この地名は、「どんな大波でも越えられない山」として知られ、永遠や不変を象徴しています。

そのため、「末の松山 波越さじ」とは、「絶対にあり得ないこと」を示す慣用表現でもあり、「二人の心も変わらない」という約束を強く印象づけています

歌の魅力と特徴

この和歌の魅力は、シンプルな言葉の中に深い感情が込められている点です。

「袖をしぼる」という表現は、平安時代の和歌でよく使われ、「涙で袖がぐっしょり濡れる」という悲しみの度合いを表しています。

このように、当時の人々にとって親しみやすい表現を使うことで、共感を得やすい歌になっています。

また、和歌において「永遠の約束」を象徴する場所や自然現象を使う手法は、平安時代の恋の歌ではよく見られるものです。

しかし、元輔の歌ではその比喩がより強調され、約束を守れなかった悲しさがより鮮明に伝わってきます

現代でも通じるテーマ

この和歌が現代でも親しまれている理由の一つは、「変わらないと思っていた愛が変わってしまった」という普遍的なテーマだからです。

恋愛における「約束」や「期待」と、それが裏切られた時の失望感は、いつの時代でも多くの人が経験するものです。

そのため、この和歌を読むと、平安時代の古い歌でありながら、まるで現代の恋愛ドラマを見ているかのような親しみを感じることができます。

清原元輔の百人一首の歌は、友人の心情を代わりに詠んだものでありながら、誰もが共感できる普遍的なテーマを扱っています。

「末の松山」という比喩を用いることで、約束の堅さと裏切られた悲しみのギャップを見事に表現しているのです。

この和歌を通じて、平安時代の人々の恋愛観や、変わらないものを求める人間の心情に触れることができます

まとめ|清原元輔と百人一首の世界観に関するポイント

この記事のおさらい
  • 清原元輔(きよはらのもとすけ、908年~990年)は平安時代中期の歌人である
  • 「三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)」の一人である
  • 清少納言(せいしょうなごん)の父である
  • 祖父(または父)は百人一首の歌人・清原深養父(きよはらのふかやぶ)である
  • 清原家は和歌や学問に優れた家系である
  • 清原元輔は「梨壺の五人(なしつぼのごにん)」として万葉集の訓点を行った
  • 梨壺の五人は村上天皇の命で選ばれた和歌の名手である
  • 万葉集の訓点作業で読みやすい形に整えた功績がある
  • 「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」の編纂にも参加した
  • 「後撰和歌集」は天皇の命による「勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)」である
  • 清原元輔は官僚として河内権守や肥後守などの職務を歴任した
  • 藤原公任(ふじわらのきんとう)により三十六歌仙に選ばれた
  • 官位は高くなかったが、和歌の才能は非常に評価された
  • ユーモアと機転の利く性格で周囲に親しまれていた
  • 「今昔物語集」に機知に富んだエピソードが記録されている
  • 清原元輔の百人一首の歌は42番目に収録されている
  • 百人一首の和歌は「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」である
  • 「末の松山(すえのまつやま)」は宮城県多賀城市に実在する場所である
  • 「末の松山」は永遠の約束を示す比喩として使われた
  • この和歌は実際には友人の心情を代わりに詠んだものである
  • 「袖をしぼる」という表現は涙で濡れた袖を絞ることを意味する
  • 歌のテーマは「変わらない愛の約束」と「裏切られた悲しみ」である
  • 清原元輔は83歳という長寿を全うした
  • 彼の和歌やエピソードは現代でも親しまれている
  • 歌は平安時代の恋愛観や人間の心情をよく表している
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