百人一首の第86番は、作者・西行法師(さいぎょうほうし)が詠んだ、月に涙の理由を託した切ない恋心が表現された歌として知られています。
百人一首『86番』の和歌とは
原文
なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
読み方・決まり字
なげけとて つきやはものを おもはする かこちがほなる わがなみだかな
「なげけ」(三字決まり)
現代語訳・意味
「嘆け」と月が私に物思いをさせるのだろうか。いや、そうではない。本当は恋の悩みなのに、まるで月が原因であるかのように流れる私の涙だよ。
背景
西行法師が詠んだ百人一首86番の和歌は、『千載和歌集』に収録されており、「月前の恋」という題材を与えられて作られました。当時の貴族や歌人たちは、自然の風景や季節の移ろいに心情を託して表現することが多く、月は特に物思いや孤独、切なさを表す象徴的な存在でした。
西行自身は、若くして出家し、旅をしながら数多くの歌を詠んだ漂泊の歌人です。歌の背景には、彼の放浪生活の中で感じた孤独や心の葛藤、叶わぬ恋への想いが色濃く反映されています。
この歌では、涙を月のせいにしながらも、実際には心の奥深くに秘めた恋の悩みが描かれています。月夜に一人涙を流す情景が、深い情緒と共に伝わってくる一首です。
語句解説
嘆けとて(なげけとて) | 「とて」は「〜と言って」という意味の格助詞。「月が私に嘆けと言っている」という意味で、月を擬人化した表現です。 |
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月やは物を思はする(つきやはものをおもはする) | 「やは」は反語の意味を持つ係助詞。「月が物思いをさせるのだろうか?いや、そうではない」という否定的な意味になります。 |
思はする(おもはする) | 「する」は使役の助動詞「す」の連体形。「物思いをさせる」という意味になります。 |
かこち顔なる(かこちがほなる) | 「かこち顔」は「かこつける」から派生した言葉。「他人(ここでは月)のせいにする様子」という意味です。「恨みがましい表情」というニュアンスも含まれます。 |
わが涙かな(わがなみだかな) | 「かな」は詠嘆の終助詞。「涙なのだなあ」と、感情を強く表す意味合いがあります。 |
作者|西行法師
作者名 | 西行法師(さいぎょうほうし) |
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本名 | 佐藤義清(さとう のりきよ) |
生没年 | 1118年(元永元年)~1190年(建久元年) |
家柄 | 藤原北家の流れを汲む名門武士の家に生まれる |
役職 | 鳥羽上皇に仕える北面の武士として宮廷の護衛を務めた |
業績 | 約2300首の和歌を残す。勅撰和歌集『新古今和歌集』に94首入選(最多入選者)。自身の歌集『山家集』を編纂。 |
歌の特徴 | 月や花を題材にした歌が多い。恋や自然を繊細かつ大胆に詠む。放浪者としての自由な心情が歌に表れている。 |
出典|千載和歌集
出典 | 千載和歌集(せんざいわかしゅう) |
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成立時期 | 1188年(文治4年) |
編纂者 | 藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい) |
位置づけ | 八代集の7番目の勅撰和歌集 |
収録歌数 | 1,288首 |
歌の特徴 | 平安末期の幽玄で温雅な歌風を特徴とし、新奇を抑えた調和の美を追求。釈教や神祇に特化した巻があり、雑歌には長歌や旋頭歌も収録。 |
収録巻 | 「恋」926番 |
語呂合わせ
なげけとて つきやはものを おもはする かこちがほなる わがなみだかな
「なげけ かこ(嘆け過去)」
百人一首『86番』の和歌の豆知識
「月」と涙の深い関係
特に夜空に浮かぶ月は、静かでありながら心の奥深くに秘めた感情を引き出す力があるとされてきました。
この歌では、涙を月のせいにしているように見えますが、実際には作者自身の心の中に秘めた恋の悩みが涙となって溢れています。月を恨むような表現を用いることで、自分の弱さや苦しさを間接的に吐露し、歌に深い情感を持たせています。
古くから月は、人の心の動きを映し出す「鏡」として、多くの和歌に詠まれ続けてきました。
西行法師の「叶わぬ恋」伝説
特に皇后・待賢門院(たいけんもんいん)への恋心が背景にあったとも言われます。この話が真実かどうかは分かりませんが、西行の多くの歌には、切ない恋心や諦めが感じられます。
この歌も表面上は月に対する感情を詠んでいるように見えますが、その涙の裏には叶わなかった恋の想いが込められているのかもしれません。西行の恋の伝説は時代を超えて人々の興味を引き続け、彼の歌の切なさをより一層際立たせています。
涙を美しく表現する和歌の技法
この歌では「かこち顔なる わが涙かな」と詠まれ、涙があたかも月を恨むかのような表情をしていると表現されています。涙を自然現象や外的要素(月)に重ねることで、直接的な感情表現を避けながらも、より深い情感や奥行きを生み出しています。
涙が持つ切なさや苦しさを自然に託して表現するこの技法は、和歌の中でも特に洗練された表現方法の一つです。涙がただ悲しみを示すだけでなく、一つの風景画のように描かれている点が、この歌の魅力の一つと言えるでしょう。
まとめ|百人一首『86番』のポイント
- 原文:「なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな」
- 読み方:「なげけとて つきやはものを おもはする かこちがほなる わがなみだかな」
- 決まり字:「なげけ」(三字決まり)
- 現代語訳:「嘆け」と月が私に物思いをさせるのだろうか。いや、そうではない。本当は恋の悩みなのに、月のせいにするようにこぼれ落ちる私の涙だ
- 背景:題材は「月前の恋」で、月に自分の涙の理由を重ねて表現している
- 語句解説①:嘆けとて…「〜と言って」という意味で月を擬人化している
- 語句解説②:月やは物を思はする…反語表現で「月が物思いをさせるのか?いや、そうではない」という意味
- 語句解説③:思はする…使役の助動詞「す」の連体形で「物思いをさせる」という意味
- 語句解説④:かこち顔なる…「他人(ここでは月)のせいにする様子」という意味
- 語句解説⑤:わが涙かな…「かな」は詠嘆の終助詞で「涙なのだなあ」という意味
- 作者:西行法師(さいぎょうほうし)、本名は佐藤義清
- 作者の業績:2300首以上の和歌を残し、『新古今和歌集』に94首入選した
- 出典:『千載和歌集』、成立は1188年、編纂者は藤原俊成
- 出典の収録巻:「恋」第13巻、926番に収録されている
- 語呂合わせ:「なげけ かこ(嘆け過去)」と覚えることができる
- 豆知識①:「月」は和歌で物思いの象徴として多く詠まれる
- 豆知識②:西行には「叶わぬ恋」の伝説がある
- 豆知識③:涙を自然現象(月)と重ねて表現する技法が用いられている