百人一首の第90番は、作者 殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)が詠んだ、涙が枯れ、ついには血の涙となるほどの激しい恋の苦しみを表現した歌として知られています。
百人一首『90番』の和歌とは
原文
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
読み方・決まり字
みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず
「みせ」(二字決まり)
現代語訳・意味
あなたに見せたいものです。松島にある雄島の漁師の袖でさえ、波に濡れてもその色は変わりません。それなのに、私の袖は涙が枯れ、ついには血の涙となって色が変わってしまいました。
背景
百人一首『90番』の歌は、平安時代末期に活躍した歌人、殷富門院大輔によって詠まれました。この時代は、貴族社会が衰退し、武士が勢力を拡大し始める激動の時期でした。宮廷文化の中では、和歌が重要な教養とされ、特に恋愛をテーマにした歌が多く詠まれていました。
歌の背景には、恋の苦しみや叶わぬ思いに涙を流し続ける女性の姿があります。また、この時代は和歌に涙や血涙といった表現がよく使われ、感情の激しさや深さを伝えるための象徴となっていました。雄島の漁師の袖を引き合いに出すことで、自らの悲しみを際立たせ、深い嘆きを詠んでいるのです。
語句解説
見せばやな(みせばやな) | 「ばや」:願望の終助詞。「~したいものだ」という意味。意味:「見せたいものだなあ」という強い願いを表している。 |
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雄島(をじま) | 宮城県の松島にある島で、和歌に多く詠まれる「歌枕」の一つ。意味:「宮城県松島にある雄島」のこと。 |
あま(あま) | 漁師を意味し、男女どちらにも使われる。意味:「漁をする人」 |
袖だにも(そでだにも) | 「だに」:副助詞。「~でさえ」という意味。意味:「袖でさえも」 |
ぬれにぞぬれし(ぬれにぞぬれし) | 「ぬれ」:動詞「ぬる」(濡れる)の連用形。意味:「ひどく濡れに濡れた」 |
色はかはらず(いろはかはらず) | 「色」:袖の色を指し、ここでは涙や血涙による変化を表現。「かはらず」:変わらないという意味。意味:「色は変わらない」 |
作者|殷富門院大輔
作者名 | 殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) |
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本名 | 不詳 |
生没年 | 1130年(大治5年)頃~1200年(正治2年)頃 |
家柄 | 藤原北家の出身、父は従五位下・藤原信成 |
役職 | 殷富門院(後白河天皇の皇女・亮子内親王)に仕えた女房 |
業績 | 「千首大輔」と称されるほど多くの和歌を詠んだ。勅撰和歌集に63首が採録されている。女房三十六歌仙の一人。 |
歌の特徴 | 恋歌に優れ、感情表現が豊か。悲しみや切なさを繊細かつ力強く表現。 |
出典|千載和歌集
出典 | 千載和歌集(せんざいわかしゅう) |
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成立時期 | 1188年(文治4年) |
編纂者 | 藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい) |
位置づけ | 八代集の7番目の勅撰和歌集 |
収録歌数 | 1,288首 |
歌の特徴 | 平安末期の幽玄で温雅な歌風を特徴とし、新奇を抑えた調和の美を追求。釈教や神祇に特化した巻があり、雑歌には長歌や旋頭歌も収録。 |
収録巻 | 「恋四」884番 |
語呂合わせ
みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず
「みせ ぬれ(店濡れ)」
表現技法
比喩法 | 「雄島の漁師の袖」と「自分の涙で濡れた袖」を対比させ、涙の激しさを表現しています。 |
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倒置法 | 「見せばやな(見せたいものだなあ)」が冒頭に配置することで、作者の強い感情や願望が印象的に伝わります。 |
体言止め | なし |
対句法 | 「ぬれにぞぬれし」と「色はかはらず」が対比され、涙に濡れても変わらない袖と、自分の涙で色が変わってしまった袖の対比が明確に描かれています。 |
反復法 | 「ぬれにぞぬれし」:「ぬれ(濡れ)」という言葉を繰り返すことで、涙による袖の濡れ具合が強調されています。 |
省略法 | 「色はかはらず」の部分に「血の涙」という具体的な言葉は使われていませんが、平安時代の和歌文化では「袖の色が変わる=血の涙」と読み手が理解することが前提となっています。 |
呼びかけ | なし |
百人一首『90番』の和歌の豆知識
舞台は日本三景「松島」
松島は「日本三景」の一つとしても有名で、多くの歌人や詩人がその美しい風景を詠んできました。
「雄島」は波に洗われる岩肌と青々とした松の景色が印象的で、平安時代から和歌の題材として愛されていました。歌枕として詠まれることで、歌の背景や情景がより鮮やかに浮かび上がります。
涙が「血の涙」に変わる理由
この表現は、中国の古典『韓非子』に登場する逸話に由来しています。物語では、無念さや悲しみのあまり涙が血に変わったとされ、その表現が日本の和歌にも取り入れられました。
この歌では、漁師の袖が海水でどれほど濡れても色が変わらないことを引き合いに出し、涙で濡れた自分の袖が血の涙によって色が変わったことを強調しています。当時の人々は、この表現から作者の激しい感情を読み取ったことでしょう。
「本歌取り」という高度な技法
本歌取りとは、古い和歌の一部やテーマを取り入れ、新しい解釈や表現を加える技法です。
元になったのは、源重之(みなもとのしげゆき)が詠んだ「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか」という歌です。源重之の歌では、漁師の袖が波で濡れている情景が描かれましたが、殷富門院大輔はそこからさらに踏み込み、自分の涙によって袖が血に染まったことを強調しています。
本歌取りを用いることで、前の歌を知る人にはさらに深い意味が伝わるのです。
まとめ|百人一首『90番』のポイント
- 原文:見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
- 読み方:みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず
- 決まり字:「みせ」(二字決まり)
- 現代語訳:涙が枯れ、血の涙で色が変わった袖をあなたに見せたい
- 背景:平安時代末期、恋の苦しみや叶わぬ思いを涙と袖で表現した歌
- 語句解説①:見せばやな‐「見せたいものだなあ」という強い願い
- 語句解説②:雄島‐宮城県松島にある和歌で有名な島
- 語句解説③:あま‐漁師のことで男女どちらにも使う
- 語句解説④:袖だにも‐「袖でさえも」という意味
- 語句解説⑤:ぬれにぞぬれし‐涙でひどく濡れたことを強調
- 語句解説⑥:色はかはらず‐色は変わらないという意味
- 作者:殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)
- 作者の業績:「千首大輔」と称されるほど多くの和歌を詠んだ
- 出典:千載和歌集(せんざいわかしゅう)
- 出典の収録巻:恋四・884番
- 語呂合わせ:「みせ ぬれ(店濡れ)」
- 表現技法①:比喩法‐漁師の袖と自分の涙で濡れた袖を対比
- 表現技法②:倒置法‐「見せばやな」が冒頭に置かれ願望を強調
- 表現技法③:体言止め‐なし
- 表現技法④:対句法‐「ぬれにぞぬれし」と「色はかはらず」が対比
- 表現技法⑤:反復法‐「ぬれにぞぬれし」で涙の激しさを強調
- 表現技法⑥:省略法‐「血の涙」と直接表現せず読み手の解釈に委ねる
- 表現技法⑦:呼びかけ‐なし
- 豆知識①:涙が血の涙に変わる理由‐中国の古典『韓非子』に由来
- 豆知識②:舞台は日本三景「松島」‐和歌に多く詠まれる風景
- 豆知識③:「本歌取り」という高度な技法‐源重之の歌を引用し深化させた