百人一首の第20番は、平安時代に生きた元良親王が詠んだ、禁断の恋に悩む心情を描いた和歌として知られています。
また、この和歌が収められている『後撰和歌集』という勅撰和歌集の出典情報や、元良親王と京極御息所との禁断の恋の背景についても詳しく解説していきます。
百人一首『20番』に込められた想いを紐解く旅に、ぜひお付き合いください。
百人一首『20番』の和歌とは
原文
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
読み方・決まり字
わびぬれば いまはたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞおもう
※「わび」(二字決まり)
現代語訳・意味
これほど悩んでしまったからには、今となってはどうなっても同じことだ。難波の澪標のように、この身を滅ぼしてでもあなたに会いたいと思う
解説
百人一首の20番に収められている元良親王の歌は、禁じられた恋に対する強い思いが込められています。
この歌が詠まれた背景には、元良親王と京極御息所(きょうごくのみやすんどころ)との恋愛がありました。二人の関係は当時の世間でも噂になり、やがてその恋が発覚したことで、元良親王は困難な立場に立たされます。
この和歌で、元良親王は恋の苦しみに行き詰まり、もう何をしても同じだと感じています。そして、難波の澪標(みおつくし)を「身を尽くす」という言葉に掛けて、自らの全てを犠牲にしてでも恋人に会いたいという強い意志を表しています。
この歌の特徴は、恋愛に対する覚悟と自己犠牲の意志が強く表現されている点です。平安時代の和歌において、このように命を懸けた恋を詠むことは珍しく、元良親王の情熱的な性格がよく表れています。
また、難波の澪標という具体的な場所を用いることで、和歌全体にリアリティと切迫感を与えています。この地名が使われることで、当時の人々にとっては非常に身近に感じられたでしょう。
百人一首『20番』は、禁断の恋に悩む人々の心情を見事に表現した和歌であり、その背景を知ることで、さらに深く味わうことができる作品です。
作者|元良親王
百人一首の20番の作者は、元良親王(もとよししんのう)です。
彼は890年に生まれ、943年に亡くなった平安時代の皇族で、陽成天皇の皇子として知られています。
元良親王は、その風流さと恋愛に関するエピソードで有名でした。特に、京極御息所(きょうごくのみやすんどころ)との恋愛は多くの物語や説話に取り上げられています。彼は非常に感受性豊かな人物で、その感性が多くの和歌に反映されています。
彼の恋愛に対する情熱は、当時の貴族社会では異例とも言えるもので、そのため彼の和歌は特に恋の歌として知られています。元良親王が詠んだこの百人一首の20番も、彼の激しい恋愛感情を表現した一首です。
一方で、元良親王は多くの女性との恋愛を経験したことで、「色好み」としても知られていました。彼の和歌はその経験から生まれたものであり、恋愛に対する深い洞察が感じられる作品が多いです。
出典|後撰和歌集
百人一首の20番に選ばれている元良親王の和歌は、『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』に収められています。
『後撰和歌集』は、平安時代中期に成立した勅撰和歌集であり、全20巻から構成されています。
この和歌集は、大中臣能宣や清原元輔らによって編集され、数々の優れた和歌が選ばれました。その中で、元良親王の和歌も「恋の部」に収められています。この「恋の部」には、多くの恋に関する歌が集められており、その中でも元良親王の歌は特に情熱的なものとして評価されています。
『後撰和歌集』は、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』に続くもので、当時の和歌の傾向や流行を知る上で重要な資料です。元良親王の和歌がここに収められたことは、彼の詠んだ歌が当時の和歌の世界でも高く評価されていたことを示しています。
このように、百人一首20番の元良親王の和歌は、『後撰和歌集』にその出典を持ち、その背景には平安時代の貴族社会における恋愛のあり方や和歌の重要性が反映されています。
百人一首『20番』の和歌の豆知識
わびぬればの意味と語法
「わびぬれば」という言葉は、百人一首『20番』の歌の冒頭に使われています。
この言葉には、「悩み苦しんだ結果、どうしようもない状態になってしまった」という意味が込められています。ここで使われている「わび」は、元々「わぶ」という動詞の連用形で、「困る」「悩む」という意味を持っています。
具体的には、恋愛における苦しみや行き詰まりを表現しています。元良親王がこの言葉を使うことで、彼が恋に対してどれほど深く悩み、そして行き詰まってしまったかが強く伝わってきます。
また、「ぬれば」という形で動詞が終わっていることから、過去の状態を強調しつつ、その結果として現在の感情や状況に繋がっていることを示しています。この「わびぬれば」という表現は、和歌全体の中で非常に重要な役割を果たしており、恋に悩む切実な心情を端的に表しています。
澪標(みおつくし)と掛詞
「澪標(みおつくし)」は、百人一首『20番』の歌において重要な役割を果たしている言葉です。
この言葉は、大阪の難波にある航路を示す標識のことを指します。古代から大阪湾には浅瀬が多く、船が安全に通行できるように立てられたのがこの「澪標」です。
しかし、この和歌では「澪標」がもう一つの意味を持っています。それは「身を尽くす」という言葉と掛け合わせることで、恋に命を懸ける覚悟を表現しているのです。このように、一つの言葉に複数の意味を持たせる技法を「掛詞(かけことば)」といいます。
「澪標」は船の道しるべでありながら、同時に「身を尽くしてでも」という強い決意を表しています。元良親王は、恋における困難や危険を乗り越えてでも恋人に会いたいという気持ちを、この掛詞を用いて巧みに表現しています。
掛詞を使うことで、和歌に深みが生まれ、読者に対して言葉の裏に隠された意味を考えさせる効果があります。この「澪標」と「身を尽くす」の掛詞は、恋愛における覚悟や自己犠牲の意志を表す非常に強力な表現となっています。
元良親王と京極御息所
元良親王と京極御息所の関係は、平安時代の貴族社会で非常に注目を集めた禁断の恋として知られています。
京極御息所は、宇多天皇の妃で、その美しさは宮中でも評判でした。一方、元良親王は陽成天皇の皇子で、風流を好み、また多くの女性と恋愛関係を持った人物として有名でした。
二人の関係は、当時の厳しい宮廷社会において許されないものでしたが、それでも二人はお互いに強く惹かれ合いました。この恋愛が発覚した際、元良親王は謹慎を命じられ、宮中での地位を一時的に失うことになりました。京極御息所との関係は、単なる一時的な感情ではなく、深く情熱的なものであったことが、元良親王が詠んだ和歌からも伝わってきます。
特に、百人一首『20番』に選ばれた和歌には、彼の恋に対する深い悩みと覚悟が表現されています。元良親王は、恋愛において大きなリスクを負ってでも、京極御息所に会いたいという強い気持ちを持っていました。この和歌は、ただの恋愛の歌というだけでなく、彼の人生観や恋愛に対する真摯な姿勢を映し出しています。
このように、元良親王と京極御息所の関係は、単なる恋愛以上のものを示しており、当時の社会における禁忌とその結果に対する彼らの覚悟が深く表れています。二人の恋愛が平安時代の物語や伝説として残り続けたのは、その情熱の強さと悲劇性が多くの人々の心に響いたからでしょう。
大阪・難波との関係
百人一首『20番』の歌には、「難波(なには)」という地名が登場します。
これは現在の大阪市にある地名で、当時は日本の主要な港湾都市として知られていました。この歌では、難波に立つ航路の目印である「澪標(みおつくし)」が重要な役割を果たしています。
元良親王がこの地名を使った理由は、難波が当時の交通や貿易の要所であったことから、恋愛における困難を象徴する場所として適していたからです。
この歌碑が大阪の吹田サービスエリアに設置されていることも、難波との関係を強調しています。難波という地名を通じて、和歌に地域性と具体的なイメージが加わり、当時の人々にとっても身近で理解しやすい内容となっています。大阪や難波に興味がある人にとっても、この歌は特別な意味を持つ一首と言えるでしょう。
まとめ|百人一首『20番』のポイント
- 百人一首『20番』の和歌は元良親王が詠んだ
- 元良親王は平安時代の皇族で、恋愛に関するエピソードが多い
- 和歌の原文は「わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」
- 読み方は「わびぬれば いまはたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞおもう」
- 「わびぬれば」は二字決まりである
- 和歌の現代語訳は「これほど悩んだ今はどうなっても同じだ」
- 澪標(みおつくし)は大阪の難波に立つ航路標識を指す
- 和歌では「澪標」と「身を尽くす」が掛詞になっている
- 和歌は禁じられた恋に悩む心情を表現している
- 元良親王と京極御息所の禁断の恋が背景にある
- 元良親王は恋に対する覚悟と自己犠牲を詠んでいる
- 難波という具体的な地名が和歌にリアリティを与えている
- 和歌の出典は『後撰和歌集』である
- 元良親王の和歌は「恋の部」に収められている
- 和歌は当時の貴族社会での恋愛の困難さを反映している